Masuk王城へ戻った頃には、空が白み始めていた。
夜明け前の薄青い光が、長い廊下の窓から差し込んでいる。雨は王城に着く頃にはほとんど止んでいて、回廊の硝子窓の外では、最後の細かい霧雨が、灰色がかった青の空気の中を、まだゆっくりと落ちていた。廊下の燭台はほとんど落とされ、残った一つだけが、回廊の角で低く揺れていた。蝋の溶けた匂いが、湿気を含んだ空気の中にかすかに残っている。ルシアンは外套を脱ぎながら、小さく息を吐いた。眠気はない。だが、胸の奥に嫌な感覚だけが残っていた。
雨に濡れた噴水の縁で、不自然に笑ったまま動かなかった死体。そして、水面に一瞬だけ映った、長い黒髪の女。どちらも、目を閉じれば瞼の裏に張り付いて離れなかった。死体の口腔の中に溜まっていた雨水の色までも、はっきりと思い出せた。
「……錯覚か」
そう呟いた時だった。
「殿下」
静かな声が背後から響く。振り返るまでもない。セレネ・ヴァルキュリア。彼女はすでに着替えていた。雨に濡れていた黒のドレスは消え、今は深い紺色の室内用ドレスに変わっている。襟元には控えめな銀の刺繍があり、袖口は手首をきっちりと締めて、室内用とは思えないほど隙がなかった。長い黒髪も整えられ、結い上げず、肩のあたりで一度緩く編まれて、白い首筋の右側に流されている。先ほどまで雨に濡れていた毛先には、もうどこにも湿りの痕跡がなかった。
つい先ほどまで、死体の前に立っていたとは思えないほど、完璧に。
夜明けの薄光の中に立つ彼女は、相変わらず人形じみて美しかった。窓越しの青い光が、片頬の輪郭だけを淡くなぞり、もう片頬は、廊下の燭台の橙色の中に沈んでいた。二色の光が、白い肌の上で静かに混ざる。白い肌。感情を映さない海色の瞳。その整いすぎた美貌は、時々ひどく冷たく見える。
「休まなくていいのか」
「殿下こそ」
「俺は慣れてる」
「私もです」
淡々と返され、ルシアンは苦笑する。昔からこうだ。彼女との会話は、時々討論会のようになる。学園時代からずっと。
ルシアンは執務室の扉を開けた。扉の蝶番が低く一度だけ鳴り、夜のあいだに溜まっていた紙とインクと薪の匂いが、ふっと廊下の冷気の中に押し出されてくる。卓上には、昨日の昼に処理しきれなかった書類が積み重なり、その上で、消し忘れたランプの炎が、まだ細く息を保っていた。外套を椅子の背に掛け、革張りの椅子に深く腰を下ろす。革が一度きしみ、ルシアンの体温に合わせて、ゆっくりと沈んだ。
「で」
組んだ指の上に顎を乗せる。
「お前は何を調べるつもりだ」
「まずは被害者について」
セレネは当然のように室内へ入ってくる。その姿を見て、部屋にいた若い騎士が目を見開いて思わず声をあげた。
「え」
まだ配属されたばかりなのだろう。年若い騎士だった。
「ヴァルキュリア侯爵令嬢」
彼は戸惑ったようにルシアンを見る。
「なぜ捜査会議に」
瞬間、部屋の空気が止まった。古参の騎士たちが、揃って微妙な顔をする。やがて一人が、呆れたように口を開いた。
「お前、知らないのか」
「え」
「セレネ様は殿下の補佐役だ」
「ほ、補佐役」
騎士は目を見開く。無理もない。普通、貴族令嬢が王族の捜査へ関わることなどあり得ない。だが学園卒業後、気づけばセレネは当然のようにここにいた。情報整理。証言分析。貴族間の調整。時には騎士団より早く、事件の核心へ辿り着く。
「手伝っていただいているのですか」
新人騎士が恐る恐る尋ねる。セレネは少しだけ考えるように目を伏せた。
「手伝っているつもりはありません」
「は」
「効率が悪いので、口を出しているだけです」
部屋が静まり返る。ルシアンは思わず額を押さえた。
「お前はもう少し言い方を考えろ」
「事実ですよ」
悪気が一切ない声だった。古参騎士たちは、慣れたように苦笑している。新人騎士だけが青ざめていた。
ルシアンは小さく息を吐く。
「で、被害者の身元は」
一人の騎士が書類を差し出した。
「レイモンド・グラディス伯爵です」
その名に、セレネの睫毛がわずかに揺れる。ルシアンは見逃さなかった。
「昨夜は」
「ローディア公爵家主催の夜会へ参加していたとのことです」
その瞬間、セレネの視線が静かに落ちる。ほんの一瞬。だが、何かを考えた顔だった。
「最後に確認されたのは」
「夜会終了後、一人で帰宅したところまでは」
「家族構成は」
「妻と娘が一人。息子はいません」
セレネは少しだけ考えるように目を伏せた。
「事業は」
「は」
騎士が目を瞬かせる。
「最近、投資に失敗したという噂が」
別の騎士が書類をめくりながら答えた。
「領地経営もあまり順調ではなかったとか」
「借金は」
静かな声だった。部屋が少し静まる。
「……現在確認中です」
ルシアンは椅子にもたれ、小さく息を吐いた。
「お前、最初からそっちを疑ってるな」
「怪異より人間の方が現実的です」
セレネは淡々と言った。
「特に、人が恐怖を利用する時は」
その言葉に、部屋の空気が少し重くなる。ルシアンは椅子にもたれた。
「だが、水鏡の噂はもう広がっている」
「ええ」
騎士の一人が嫌そうに顔をしかめる。
「今朝だけで、怪談話が十件以上」
「早いな」
「怪談は広がるのが早いんです」
セレネが静かに言った。海色の瞳が、どこか遠くを見る。
「特に、人が死んだ後は」
ルシアンは、昨夜の水面を思い出す。長い黒髪。赤い唇。あれは本当に、見間違いだったのか。
その時だった。
室内に大きな音が響くほど執務室の扉が勢いよく開かれる。蝶番が鋭く悲鳴を上げ、扉の縁が壁の留め具に当たって、低く跳ね返った。卓上のランプの炎が、その風で一度大きく揺れ、書類の端を黄色く照らした影が、机の上を素早く走った。
「殿下」
騎士が息を切らして飛び込んできた。外套は雨で重く、廊下の絨毯にすでに点々と滴を残している。胸が大きく上下し、呼吸の音が、夜明けの静けさの中で不自然に大きく響いた。
「第二の被害者が見つかりました」
「……お会いしたかったのです、セレネ様」 その声は、水面へ落ちる雫みたいに静かだった。 ルシアンは小さく目を細める。初対面の相手へ向ける声にしては、あまりに深い。まるで長い間、胸の奥で大切にしていた名前を、ようやく口にしたみたいだった。「私に、ですか?」 セレネが少し戸惑ったように尋ねる。その瞬間、エレノアの瞳がぱっと明るくなった。「はい……!」 思わず熱が零れたような声だった。「ずっと、お会いしてみたかったんです。学院でのお話も少しだけ聞いていましたし、その……」 エレノアはそこで言葉を詰まらせる。頬が薄く赤い。細い指が落ち着かなさそうに杖を握り直した。「とても、お綺麗な方だと……」 セレネが少し困ったように瞬きをする。「ありがとうございます」「い、いえ。こちらこそありがとうございます」 何に対して礼を言っているのか分からない。フェリクスが堪えきれないように小さく笑った。 ルシアンは黙ってエレノアを見る。先ほどまでの儚げな雰囲気が、セレネを前にした途端に崩れている。分かりやすすぎた。「本当は……」 エレノアは小さく息を吸った。「お姉さまとお呼びしたいくらいで……」 部屋の空気が止まった。 セレネが固まる。フェリクスが吹き出しそうになるのを堪えるように口元を押さえた。ルシアンは無言でエレノアを見る。 エレノアは、自分が口にした言葉に遅れて気づいたらしい。みるみる顔を赤くした。「あ、いえ、その……申し訳ありません。初対面でこんなことを」「いえ……驚きましたが」 セレネが少しだけ柔らかく笑う。「嫌ではありません」 エレノアの瞳が、またぱっと明るくなった。「本当ですか?」「はい」「では、いつか本当に――」 そこまで言って、エレノアははっと口を閉じた。 ルシアンは眉を寄せる。この令嬢は、思っていたよりずっと感情が顔へ出る。少なくとも、セレネに対してだけは。 エレノアはようやくルシアンへ視線を向け、姿勢を正した。「失礼いたしました、ルシアン殿下。フェリクス殿下も、ようこそお越しくださいました」 今度の声は落ち着いていた。先ほどまでの熱は綺麗に消えている。「足の具合は?」 フェリクスが穏やかに尋ねる。「だいぶ良くなりました。まだ長く歩くのは難しいのですが」 エレノアは儚げに微笑んだ。さっきまでセレネへ向
ローディア公爵家へ向かう馬車には、ルシアン、セレネ、フェリクスの三人だけが乗っていた。 エドガーは王城へ残してある。レイモンド・グラディス伯爵の交友関係、学院事件当日の記録、ローディア家主催の夜会名簿。調べるべき資料は、まだ山ほどあった。 馬車が石畳を踏むたび、小さく揺れる。向かい側では、セレネが静かに窓の外を見ていた。 今日は珍しく髪を上げている。後ろで編み込まれた黒髪の隙間から、白い首筋が覗いていた。窓から差し込む昼の光が、淡い青銀色のドレスへ落ちるたび、水面みたいに柔らかく光る。 ルシアンは無意識に視線を止めた。 その瞬間、昨夜、指先へ触れた黒髪の感触が不意に蘇る。柔らかかった。思い出した瞬間、自分で少し眉を寄せる。「……顔が怖いよ、ルシアン」 隣でフェリクスが笑った。「別に」「いや絶対、今セレネ嬢見てたでしょ」「兄上」 フェリクスは楽しそうに肩を竦める。セレネは聞こえていないふりをして窓の外を見続けていたが、耳が少しだけ赤い。 ルシアンは気づいていない。「そういえば」 フェリクスがふと思い出したように口を開いた。「ローディア家が、昔から学院へ深く関わっているのは知ってるかな?」 セレネが静かに視線を向ける。「図書塔を管理するための支援も、代々ローディア家が行っていますね」「そうそう」 フェリクスは軽く頷いた。「僕も研究者として図書塔はよく使うからね。王城にはない古い写本や地方記録も、学院側には残ってたりする」「王城にないものが?」 ルシアンが眉を寄せる。「王城は、残すべきものを管理する場所だからね。でも学院は少し違う」 フェリクスは窓の外を眺めながら笑った。「捨てきれなかったものまで抱えてる」 ルシアンは小さく目を細める。 地下礼拝堂。削られた壁画。顔を壊された女神像。黒き髪は、ノクシアの器。あれもまた、誰かが捨てきれなかったものなのかもしれない。「ローディア家は、古い知識に近い家だ」 フェリクスが続ける。「歴史、宗教、禁書、地方信仰……そういうものを代々集めてきた」「だからアルバート教師とも繋がりがあった可能性があるのか」「十分あり得るね」 セレネが静かに呟く。「知識を集める家、ですか」 ローディア公爵家は、五大公爵家の中でも特別な立場にある。 一方で、北方防衛を担うヴァルフォード
昼を少し過ぎた頃。王族区画の執務室には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。 ルシアンは机へ肘をつきながら、エドガーが整理した資料へ視線を落としている。向かい側では、フェリクスが紅茶を片手に書類を眺めていた。そしてエドガーはというと、几帳面な性格そのままに、机の端で資料を分類している。「アストレア公爵家の令嬢が足を怪我したのは三日前です」 エドガーが静かに口を開いた。「階段から落ちたと記録されています」「偶然にしては出来すぎてるな」 ルシアンは眉を寄せる。 地下礼拝堂。杖の跡。そして公爵家の紋章入りのハンカチ。疑うには十分すぎた。だが同時に、どこか噛み合わない感覚も残っている。「本人へ直接確認するしかないだろ」「今日、公爵家へ行くの?」 フェリクスが紅茶を置きながら尋ねた。「ああ。話を聞く」「王族特務隊として?」「表向きはな」 ルシアンがそう答えた時だった。コンコン、と扉がノックされる。「失礼します。遅くなりました」 静かな声と共に扉が開いた。 セレネだった。淡い青銀色のドレス。昼の光を受けると柔らかく色が変わる、落ち着いた明るい色合いだ。装飾は控えめだが、上質な生地なのがすぐ分かる。 そして何より目を引いたのは髪だった。いつもは下ろしている長い黒髪を、今日は後ろで丁寧に編み込み、すっきりとまとめている。白い首筋が見えていた。 入室したセレネが軽く一礼する。その姿を見た瞬間、昨夜、指先へ滑った黒髪の感触が不意に蘇る。柔らかくて、驚くほど軽かった。ルシアンの視線が自然と止まった。「……髪」 ぽつりと漏れた声に、セレネがきょとんと目を瞬く。「え?」「今日は上げてるんだな」 セレネが明らかに驚いた顔をする。まさかそこを指摘されると思っていなかったのだろう。「……よく気づきましたね」「いや、普通に分かるだろ」「ルシアンが女性の髪型に気づくなんて珍しいねぇ」 フェリクスが面白そうに笑う。ルシアンは露骨に眉を寄せた。「うるせぇ」「いやだって、本当に興味ないタイプじゃん?」「兄上」「昨日何かあった?」「何もねぇよ」 即答だった。だが、少しだけ返答が早すぎた。 フェリクスが楽しそうに目を細める。セレネはというと、ほんの少しだけ視線を逸らしている。白い頬が、僅かに赤い。 だがルシアンは気づいていない。「そ
地下水路を出た頃には、空が白み始めていた。 夜明け前の王城は静かだった。昼間の喧騒が嘘みたいに、人の気配が少ない。地下の湿った空気から戻ってきたせいか、石造りの回廊を流れる朝の冷気が妙に心地よく感じた。ルシアンは軽く息を吐く。 身体が重い。 王都の噴水で遺体が見つかってから、まともに眠れていない。学院での事件。王城で倒れた女官。禁書区域で見つけた古い記録。そして地下水路。気づけば、夜は明けかけていた。 隣を歩くセレネも、さすがに疲れているらしい。濡れた黒髪がまだ完全には乾いていない。地下水路の湿気をまとったまま、静かな顔で歩いている。フェリクスが小さく肩を竦めた。「今日はここまでにしようか。さすがに頭が働かない」「兄上でもそんなこと言うんだな」「失礼だなぁ。僕だって疲れるよ」そう言いながらも、フェリクスの表情はどこか楽しそうだった。「地下礼拝堂、面白かったしね」「面白いで済ませるな」「でも久々だろ? ルシアンがこんなに夢中になってるの」 ルシアンは小さく眉を寄せる。否定しようとしたが、言葉が出なかった。確かに気になっていた。王城の地下に、あんな場所が残っていたことも。誰かが今も使っている形跡があることも。全部が妙に引っかかっていた。「じゃ、僕は一度部屋へ戻るよ。また昼頃に」フェリクスは軽く手を振ると、そのまま別の回廊へ消えていった。 静けさが残る。ルシアンは隣のセレネを見る。「お前も休め」「殿下こそ」「俺はまだ執務が残ってる」セレネは少しだけ呆れたような顔をした。「少しはお休みください」「努力はする」 絶対休まない返答だった。セレネも分かっているのか、小さく息を吐いた。「……無理はなさらないでください」「お前もな」 短いやり取りの後、二人はそれぞれ別の回廊へ向かう。 婚約者であるセレネには、王城内に専用の居室が与えられていた。正式な婚姻前とはいえ、王族教育や公務補佐のため、半ば王族扱いに近い立場なのだ。ルシアンはそのまま執務室へ戻った。部屋へ入った瞬間、ようやく肩の力が抜ける。 机の上には、エドガーが整理したらしい資料が既に積み上がっていた。几帳面すぎるほど整っている。「……仕事早ぇな」ルシアンは適当に一枚手に取る。だが文字が頭へ入ってこない。視界が霞む。 限界だった。 ルシアンは低く息を吐くと、
地下礼拝堂は、想像していた以上に広かった。 地下水路の先に突然現れたとは思えないほど、空間が整っている。ルシアンは灯りを少し高く掲げた。揺れる炎が石壁を照らし、古びた礼拝堂の全貌がゆっくり浮かび上がっていく。 天井は半円状になっていた。地下とは思えないほど高い。水路部分の圧迫感とは違い、この空間だけ妙に広く感じる。 壁面には古い彫刻が刻まれていた。だが、その多くは不自然に削られている。まるで、何かを隠すように。 床には薄く水が溜まり、歩くたび小さな波紋が広がった。地下特有の湿気が濃い。それなのに、この空間には別の匂いも混じっていた。 香だ。 甘いような、少し苦いような独特の香り。最近焚かれたものだと分かる。フェリクスも周囲を見回しながら、小さく息を吐いた。「……思ったより保存状態がいいね」「放置されてたにしては綺麗すぎる」ルシアンは祭壇へ近づく。石造りの祭壇は古いが、埃が少ない。最近誰かが触れた跡がある。灯りを近づけると、表面には細かな傷が無数に刻まれていた。古い文字だ。だが一部は、何かで削り取られている。風化というより、意図的に消されたように見えた。その時だった。後ろで、水を踏む小さな音がした。 振り返ると、セレネが壁際へ近づいていた。海色の瞳が、削られた石壁を静かに見上げている。「……どうした」「削られています」セレネは壁へ触れず、目だけで痕跡を追っていた。「かなり後の時代に、意図的に」ルシアンも灯りを向ける。確かに不自然だった。一部分だけ、深く削り取られている。普通の風化ではこうならない。フェリクスが興味深そうに近づいた。「分かるの?」「削り方が違います。元々の彫刻と年代が合っていません」セレネは静かな声で続ける。「古い礼拝堂を、後の時代に誰かが修正したのだと思います」「つまり、残したくない何かがあった?」「可能性はあります」 地下礼拝堂。消された紋章。ノクシア。全部が少しずつ繋がり始めていた。ルシアンは祭壇の奥へ灯りを向ける。そこには、大人三人分ほどの高さがある巨大な女神像が残されていた。 天井近くまで届きそうな石像は、長い年月を地下で過ごしていたせいか、表面の一部が黒ずんでいる。だが、それでも異様な存在感があった。 長い髪。細い指。胸元で抱える大きな水瓶。その水瓶からは、今も地下水が流れているよ
石階段は思った以上に長かった。 降りるほど空気が重くなる。湿った匂いが肺へまとわりつき、ルシアンの手にした灯りの炎も、不安定に揺れていた。コツ、コツ、と足音だけが暗闇へ響く。狭い石壁にぶつかった音が、少し遅れて返ってくる。まるで、後ろから別の誰かが歩いているみたいだった。ルシアンは小さく眉を寄せる。「……気味悪いな」「音が反響してるんだよ」 後ろからフェリクスが静かに答えた。「地下水路特有の構造だね。壁が石造りだから余計響く」その時だった。フェリクスが思い出したように口を開く。「そういえば、新しい補佐官君は?」「ああ、エドガーなら執務室へ戻した」ルシアンは前を向いたまま答える。「事件関連の資料整理を頼んである」「なるほど。さすがに地下探索までは連れて来なかったか」「剣も使えねぇしな」エドガーは頭は回る。だが、こういう場所向きではない。むしろ今頃、山積みになった記録書類と格闘している方があいつらしかった。さらに数段降りたところで、ふっと空間が開けた。階段が終わる。ルシアンは灯りを少し高く掲げた。揺れる炎が暗闇を押し退け、地下空間をぼんやり照らし出す。そこに広がっていたのは、古い地下水路だった。 天井は低い。背の高いルシアンだと、少し圧迫感を覚えるほどには狭い。両脇の石壁には、長い年月をかけて染み込んだ黒い水跡が浮かび、床の端には浅く水が溜まっている。 灯りがなければ、数歩先すら見えない暗さだった。炎が揺れるたび、石壁の影が歪む。まるで誰かが動いたように見えて、一瞬、視線がそちらへ引っ張られた。どこかで、水が流れていた。ちゃぷん。 遠くで小さな水音が響く。だが、その音は地下通路の反響によって妙に広がり、位置が分からなくなる。前から聞こえたと思えば、次は後ろから聞こえた気がする。ルシアンは小さく舌打ちした。「方向が分かりづれぇ……」「だから歌声に聞こえるんだろうね」フェリクスが周囲を見回しながら言う。「人の声って、反響すると妙に伸びるから」ルシアンはゆっくり周囲を観察した。地下水路と言っても、ただの下水ではない。古い石造りの通路が幾つも枝分かれしている。王城建設初期の設備なのだろう。アルヴェリア暦726年。 王城は何度も増築されている。古い設備が地下へ埋もれていても不思議ではなかった。その時だった。灯りの
セレネの視線は、ずっと中庭の奥のほうへ向けられていた。死体ではない。もっと奥の、別の何かを探しているような目だった。「……お前、何を見てる」 ルシアンは低く問う。 セレネはすぐには答えなかった。睫毛の動きすら惜しむように、視線だけが、ゆっくりと中庭の隅から隅へと流れていく。それから、ぽつりと言った。「まだ、分かりません。ですが、嫌な感じがします」 その時だった。「殿下」 中庭の側で待機していた男が、早足で駆け寄ってきた。エドガー。王族特務隊の隊長補佐。数か月前から隊長補佐になった男だが、普段は資料整理を任せている、几帳面で空気を読むことに長けた男だった。「現場の封鎖
王城を出た頃には、空が薄く白み始めていた。 雨は完全に上がっていた。けれど王都の石畳には、まだ昨夜の雨を吸ったままの水溜まりがあちこちに残り、灰色がかった空をぼんやりと映している。馬車の車輪が、その上を通るたびに低く軋み、轍が浅く水を弾いて、また背後に小さな水紋を作っていった。 ルシアンは窓の外を見つめながら、小さく息を吐いた。眠気はない。だが、頭の奥には、昨夜の噴水が、まだ濃く焼き付いて離れなかった。 笑う死体。血のない身体。そして、揺れる水面に一瞬だけ映った、長い黒髪の女。 目を閉じれば、すぐに浮かぶ。瞼を上げれば、向かいの窓硝子に、湿った朝の街が、ぼんやりと映って流れていた。
一瞬、部屋が静まり返った。 暖炉の薪がぱちりと爆ぜる音だけが、やけに大きく耳に残る。窓の外はまだ夜の名残を引きずる薄青で、雨上がりの湿った匂いが、開け放たれた扉の隙間から忍び込んでいた。「……は」 ルシアンの手が、握りかけていた書類の上で止まる。「もう次が出たのか」 声に、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。「は、はい」 報告に来た騎士の顔は、ランプの光の下でも分かるほど青ざめていた。雨に濡れた外套の裾から、絨毯に小さな滴が落ちる。「最初の被害者と同じです。血液がほとんど──失われています」 言葉の最後が、掠れた。 誰かが、息を呑む音。空気が、ぴんと張り詰める。 ルシアン
「何かを起こそうとしているのですね……」 雨音に紛れるほど、小さな呟きだった。けれど、ルシアンの耳には確かに届いていた。 セレネはまだ水面を見つめている。揺れる水鏡。雨粒が次々と落ち、波紋が幾重にも重なって、新しい紋様が古い紋様を押し潰し、また別の雨粒が落ちて、ひと時も平らに戻らない。先ほど、確かにそこに映って見えた女の姿は──もう、どこにもなかった。 錯覚だったのか。 そう思おうとしても、背筋に残る寒気が消えない。外套の襟元から、いつのまにか冷たい水が一筋、首筋を伝って背中へ落ちていた。皮膚を伝う雨の温度よりも、もっと内側、肋骨の奥のあたりが、ひとり冷えていた。「何が起ころうとし







